逸見政孝、シャープ元副社長… 日航機「123便」搭乗を回避した当事者たち

 昭和60年8月12日に発生した、日航機の御巣鷹山墜落事故520人が犠牲となった一方で、間一髪で事故を免れた人々もいる。当事者たちが証言する当時の様子、そして“その後”の人生とは。

 ***

 急用でやむなく123便をキャンセルした結果、難を逃れた人もいる。

 シャープ元副社長の佐々木正もその1人である。今年100歳を迎えた彼が、当時の記憶をたぐり寄せる。

 昭和60年、佐々木は副社長兼東京支社長の職にあった。12日は自宅のある大阪に帰るため当便を予約していた。

 ところが前日、佐々木に「明日、会えないか」と連絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長である。

「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しようとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変更してもらったんです」

危機を2度も回避

 日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった。

 ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにもたらされたのが事故の一報。

「家内は、かなり遅くまで待っていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめたらしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていることを誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」

 淨子夫人は空港で待つ間、“あの日”を思い出していたかもしれない。実は佐々木は以前にも、航空機事故を奇跡的に逃れた経験を持っているからだ

 それは昭和49年、佐々木がシャープの専務時代にさかのぼる。マレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日のことだった。空港に行き、次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわした

「私の乗る便は途中クアラルンプールに寄る。早く着くから一緒に行かないか

 と誘われた。心は動いたが、早く到着しても誰も迎えに来ていないと思い、佐々木は断った。その後、農林相を乗せた飛行機は墜落し、彼は命を落とした

「生かされた命ですから、人の役に立つ製品をつくらなければと思って、これまでやってきました」

 電卓、真空管半導体、液晶、太陽電池と、シャープ躍進の鍵を握る技術に、佐々木は関わってきた。

 そしていまは老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」技術を勉強中。技術確立のために、「自分を実験台として使ってほしい」とまで熱く語る。

「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています

 

イッツミーと123便

 フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝は、その年、不惑を迎えていた。彼はあの日、妻と息子、娘の4人で、実家のある大阪へ飛行機で帰省するつもりだった。逸見が希望したのは、なぜか123便だった

 だがその便を予約しようとすると、満席を告げられた。おそらくその後だろう、妻・晴恵が近所に住む実母に帰省の件を話すと、こんな懸念を口にした。

4人で飛行機に乗って、もし事故でも起きたらどうするんだい

 晴恵にとってその一言は重みがあったようだ。逸見の長男でタレントの太郎(当時小学6年生)によると、「祖母は霊感があるというか、不思議な存在だった」という。

 祖母は、世田谷区奥沢でよろず屋を営んでいた。店は十字路のすぐ脇にあったのだが、そこには太郎が知っているだけで3回、車が突っ込んでいる

そのたびに店はメチャクチャになるんです。でも、いつもは店番をしている祖母がそのときに限って、近所で世間話をしていて助かっている。そういう祖母の言葉だから、母も新幹線にしようと考えたのでしょう

“123”

 父親は怖い人だったと太郎は言う

テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」

 事実、晴恵はこう説得している。

4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから

 それが功を奏し、一家新幹線で帰省した。

 日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた

「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)

 逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。

 太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。

父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」

 今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない